先月より始まりました不定期連載「タックルハウスについて」。今回は、タックルハウス創業時に生まれたルアー、ツインクル誕生のお話をお届けします。
弊社社長の渋木は大学卒業後、漁具メーカーである株式会社ヤマシタ(現ヤマリア)に就職します。遠洋漁業や沿岸漁業の漁師さんへの営業で日本古来の疑似餌を学び、更に海外の顧客との仕事を通して様々なタイプのルアーとの出会いによって、ビジネスとしてのルアーフィッシングの可能性に着目します。しかし、当時の会社は漁具を職業漁師さんへと届けるものであり、ルアーフィッシングには全く興味を示さず、悩みに悩んだ末に商社へと転職します。転職先の商社では、釣り道具の輸入に携わることもでき、そののち、担当の卸し先の一つであった株式会社スミスへと籍を移します。そして、輸入品ばかりでなく国産のルアーの登場する中、スミスにおいてもルアーの製造も目論んでいたところ、釣り具不況に見舞われ、社長にまでなったもののオーナーからあえなくクビを言い渡されてしまいます。
しかし、勤め先がなくなってもルアー製造への想いは変わりません。スミス退職時は、現在よりルアー人口は少なかったとはいえ、すでにブラックバスやトラウトをルアーで狙う釣り人がいて、メソッドもそれなりに確立されていました。ブラックバスの人気が高まり国産ルアーも充実してきましたが、その頃、ブラックバスを楽しんでいた主なユーザー層は少年たち。つまり、ライバルが多い上、お小遣いで買ってもらうためには値段を抑えなければならない。そこで、ブラックバスでの勝負は避け、まずはブラックバスよりユーザーの年齢層の高かったトラウトをメインにしたルアーの開発に注力しました。
勝ち目のない勝負はしないという考え方、臆病な気もしますが、リスクを抑えつつも将来性に着目して多くの人が気がつかないところを探す、という考え方は今の私たちにも続いている気がします。
いくら今に比べて少ないとはいえ、すでに人気のハンドメイドルアーが活躍しているトラウトのルアー市場で存在感を示すためには、実績のあるミノーをただ真似するだけでは意味がありません。それらの特徴を分析し、足りない部分は何か、多くの人に使っていただけるためにはどうしたらいいか、いかにオリジナリティを出せるか、まさに試行錯誤を続けました。
素材は、ウッド。
初めはバルサを使ってプロトタイプを削っていたのですが、強度面の不安とウェイトを入れることによりアクションに制限が出てしまうため、素材自体を変えた方が良いのではないかと考え、最終的にバルサより高比重のジェルトンという木材にたどり着きました。加工性が高い素材であるとはいえバルサに比べれば硬く、手で削るにはなかなか大変でしたが、バルサより浮力が小さいため最終的な仕上がりの重量が同じでも、使用するウェイトの量を減らすことができ、結果として、水絡みの良いルアーに仕上げることができました。
アクションはローリングを重視。
泳ぎはどうするか。ラパラに代表される人の見た目にも分かりやすいアクションが「よく泳ぐ」とされた頃でしたが、ツインクルが着目したのはローリングでした。基本的にルアーに魚を食いつかせるに必要なのは動きと光と考え、ブリブリと泳ぐルアーがメインストリームなら、細身のボディで派手な振動を抑え、ローリングによる光の明滅で魚にアピールするルアーの活躍するシーンもあるはず、と考えたわけです。
ここら辺の詳しい話、いくつかの釣り雑誌でご紹介していただいております。芸文社「Gijie」では、この他にも誕生時から現行モデルまでの変遷などを2012年にご紹介いただいていて、ウェブサイトでも当時の記事が公開されています。ぜひご覧ください。
Gijie ウェブサイト該当記事→ https://gijie.jp/magazine/story/86
ここでは、上記記事ではお話ししていないことをもう少々。
ウェイト形状にもひと工夫。
当時のハンドメイドミノーの定石として、素材のバルサとともにウェイトについては、ガン玉オモリやナツメオモリを使用していました。しかしそれでは一点に重心が集中し、ウォブリングが強くなってしまいます。いわゆるモーメントの問題です。そこで、ツインクルでは、ウォブリングを適度に抑え、またローリングを起こしやすくするため細いボディを生かして棒状の細長いオモリを採用しました。安定した飛行姿勢、飛距離を得るためにもこの形状が寄与しました。
遊び心も忘れずに。
現在でも多くのルアーの仕上げにあるアルミ張り。アルミ箔にウロコ模様をつけたものをボディに貼り、塗装をしたものですが、ツインクルでもデビュー当時から採用しています。その代わり他のミノーとの差別化として、パーマークをアルミ箔につけるウロコ模様の型押しの中で表現しました。決してリアルな色付きのパーマークではないけれど、キャストする人にはボディ横面の小判形の模様でトラウトに捕食される幼魚を感じていただき、その動きを演出してもらえるように期待して。この型押しのパーマークは、ツインクルのアイデンティティとして、現行製品にも受け継がれています。
当時(現在でも)の国産ハンドメイドミノーにはワカサギ、オイカワやウグイなどトラウトが捕食する魚をリアルに再現したキャストするのが勿体無いほど美しいものも数多くありました。しかし、リアルな見た目でないと魚に相手にされないかというとそうでないのも事実。また、エサとは異なる見た目のもので魚と対峙するのもまたルアー釣りの楽しさでもあるので、カラーリングについてはリアル過ぎないものも積極的に取り入れました。
ボディ製作は、外注で。
ウッドを削って作るルアーとはいえ、当時の想いである「誰もが手に入れることのできる価格」を実現するためには、当然大量生産が必要でした。まず目標としたのは月産500本。もちろん一人でこれを削り、組み立て、塗装をして、というのは難しい話。ルアー製作を教えてくれたビルダーの方に聞いても、そこまでの大量生産は不可能だというばかり。誰かに手伝ってもらうにしても、当時ルアーを削っている人は、既にそれをご自身で商売としているわけで、生産をお願いするわけにもいかず大量生産への道は非常に厳しいものでした。しかし、その頃は今に比べてお土産品や工芸品などの木工製品が身の回りに多かったため、商社のツテを頼って木製品の小物の生産を行なっている工場にたどり着くことができたのです。
餅は餅屋。元々が木製品の製造を行っている工場ですから、均質な木材の入手から、形状、品質にバラツキのないブランク製造などはお手の物。ボディの製造は工場に任せて、その後の組み立て、塗装などのルアーとして必要な部分の工程のみを自分たちで行うことで、誰でも手に入れることができるミノー、ツインクルは市場へとリリースされることになりました。
ひとまずは、成功。
工業製品として捉えたツインクル。やはりトラウト市場には釣り人に対してルアーの供給量が足りておらず、また、ルアー市場は拡大できるという読みはあたり、当初の生産数(今考えれば相当少ないですが)は多くの小売店からの発注にも応えることができました。また、フィールドテストを行った箱根芦ノ湖はもちろん、日本中、様々なフィールド(主に湖)でアングラーの皆様のタックルボックスに加えていただくことができました。
ツインクル、その後。
オリジナルのツインクルは、現在までその名を変えることなくトラウト用ウッドミノーとして販売していますが、フィールドの多様化から、サイズラインナップの拡充、さらには4回のモデルチェンジを経て、今では河川での使用に最適化したものとなっています。
デビュー後の数年は、タックルハウスの製品はこのツインクルのみ。その代わり、現在では廃番となってしまったものがほとんどですが、その後のタックルハウス製品のバリエーションの礎となった派生モデルも数多くリリースしてきました。
次回は、そんなデビュー後のツインクルのお話をお届けします。
創業翌年に、取引先の販売店等に出した年賀状。
ツインクルに荷札をつけ、この姿のまま届けていただきました。
初代ツインクルで芦ノ湖で良い思いをさせていただきました。塗装が傷んできましたが今でも大切に持っています。カラーも大好きです。