リリースと食べること…自選エッセイ集より【19】

SW,岳洋社

近頃ではリリース談議が落ち着いた感があるが、あえてここで取り上げてみたい。
釣った魚をどうするかは、大きく分けて三つの方法がある。①全部リリース。②全部キープ③リリースもするが、食べることもある。あなたはどれだろう?
私は常々リリースについて質問を受ける度に、放すことも食べることも大切、と答えてきた。つまり③ということだ。                                                         ◇実際
もちろん、リリースや食べることの比率は、ルアーフィッシングに限っても魚種や状況によって様々である。限りなく①に近づく場合もあれば、すべて②になることもある。
例えばスズキでいうと、外洋の岸からのスズキならキープ率は高くなる。私で三割ぐらいか。(現在は一割未満)これが東京湾などの内湾だと、放すことが多くなる。理由は簡単、外洋でスズキを岸から狙っても、全体の魚体数に影響するような数は滅多に釣れないことと、食べることを考えると内湾のものよりウマソウに見えるからだ。
ただし、魚がいる場所まで、こちらから近づける手段(ボートなど)が強力になればなるほど、リリース前提の釣りになる。それは、外洋、内湾を問わない。 ボートで釣りをすると、たまに不安になるほど多数釣れることがある。そんな時は釣れないルアーにチェンジしたり、出来るだけ少数でも楽しめる方法をとる。仲間内では、まだ釣れていない人が何事にも優先され、なるべく全員にヒットが得られるようにしている。
そして、リリースするなら、手早く、触らず、完璧に、だ。また、食べようと思った魚は、やはり手早くシメて血を抜いている。
日本には世界に誇れる魚食文化がある。たまに本物の魚を食べておかないと、インチキ表示のスーパーや、寿司屋のノウガキにダマサレテシマウゾ。(食品偽装問題が話題になる前に書いたものですが、当時、魚の表示は何でも~タイが多かったですね。)
◇リリース・アンド・キープ①
これまで幾つものランディングシーンを見てきた中で、実に感動的なリリースをした人がいた。アメリカ人の彼は、釣った一匹をシメ、次に釣った二匹目を何気なく、極めてスムースに海へ帰した。 その魚を見る目。一連の身のこなし。たぶん、普段からああいう離し方をするのだろう。特別に優しく魚を扱っていたから感動したわけではない。海外のリゾートの釣りなら、慣れて見事なリリースはいくらでも見ることが出来る。
彼に会った場所は海外ではあるが、ルアー釣りをする我々が集まるような普通の海岸である。ベトナム帰りだという彼に私が見たものは、命あるものへの想いといったものなのかもしれない。
◇リリース・アンド・キープ②
その後、国内でも海外でも、いつのまにか魚の扱い方が気になるようになった。 もちろん私も、ひたすら仲間との楽しい釣りができる、ガイド付き、完全リリースというリゾートの釣りも好きだ。しかし、一人で海外へ行くようなときには、もっと普通の釣り、我々のスズキ釣りのようなショアーからの釣りに興味を覚え、方々を旅してきた。
リゾートにはガイドもおり、迷うこともない。その場のルールに従っていればいい。尾数制限、フック制限と色々あるが、考えることもない。
問題は、自主的に考え、行動しなくてはならない大多数の普通の釣りのほうだ。それは諸外国の事情も様々で、リリース、キープ、表面上はそれほど日本と違うようには思えなかった。
アメリカのロスなど庶民向けに三千円で(今、いくらかは不明)利用できる乗合船があるが、サイズ規定違反の罰則が厳しいぐらいで、現場ではほとんどすべてキープだった。私はそこでブラックシーバスを釣ったら、それは稀少種なのでリリースしないと罰金千ドルだと言われたことがある。また、キーパーサイズに僅か1センチ足りないハリバットをやっと釣った黒人は、助手に指摘され罵声をあげながら魚を海へ叩き付けていた。
釣り上げた魚は、一ドルほどのチップで助手が捌いてビニール袋に入れてくれる。何と、赤身も白身も魚種不明のままゴッタマゼだ。さすがミンチが基本のハンバーガーの国である。
日本より厳しいルールを持ちながら、何か釈然としないものが残った。
◇人任せにしない
あのベトナム帰りの彼のように、美しくシメ、あるいはリリースするには、何が欠けていたのだろう。
それは、たぶん、あらゆることを人任せにしていない、ということに尽きるのだと思う。
釣って、シメるにせよ放すにせよ、ロッドをセットすることも、魚を捌くことも、助手やガイド、友人、彼氏に肩代わりして貰っては、全経験を我が物にすることは難しい。自分で釣り場に向かい、友人を誘い、ラインを組み、ポイントを選び、自らのルールで一匹の魚を釣り、シメて、食う。これは、釣りをやらない限り、簡単には得られない生きた貴重な知識だと思う。
普段、我々は過程を知らないまま誰かが殺した肉を食い、捌いた魚を食っている。そんな基本的なことすら、実感無しで生きていける。生きるということの仕組みの全体を直接見る機会など滅多にないのだ。
◇矛盾
釣りという行為の一連の過程の中で、幾つか欠けても、その楽しさには変わりはない。そして本来、釣りが持つ矛盾にも目をつむっていられるかもしれない。しかし、一度気付いてしまえば、後は知らんぷりをできるような問題ではない。なにしろ、そんなに魚が大切なら釣りなんか始めからしないことだという意見は常に付きまとう。その上、私など、魚にとってはかなり高性能の殺戮兵器のデザインという仕事までしているわけだ。
今の私には、それらに明確に答える術はない。ただ言えるのは言葉だけでなく、手で触れるように、その矛盾を含めた全体を見続けていこうということだ。そこでは、あらかじめ決められたマニュアルにあるような答えは無く、問題がある度に自分で悩み、考えなくてはならないだろう。

迷って良いのだと思う。むしろ、疲れて考える事を止めることのほうがコワイ。迷えば、迷っている人のことが解る。釣りをすれば、釣り人の心が解る。自然の中で遊べば、その強さと脆さを知る。
釣りという矛盾の中に居続けてこそ解ることがある。少なくとも、何処へ向かえば良いのか、その方向ぐらいは確実に見えてくる。
何処かの昔の人が、愛という感情の反対は憎しみではなく、無関心だと言っていた。まさしくそのとおり。我々は、釣りや自然に関心が有り過ぎるぐらいにある。命を絶つこと、そして食うこと。命と遊ぶこと、そして帰すこと。どれもが大切であることを願う。
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1999年3月に岳洋社さんの「SW」に掲載されたものに、若干加筆しました。下の写真はブラックシーバス。これを書いた後に、某有名デパートで近海生本マグロの解体即売の嘘がばれたことが記事になっていました。良質な冷凍物だったそうですが、問題は、数百人が食べて、気付いた人が数人しかいなかったことにもあるようです。私も自信ないです。

Posted by nino