犬になり鮭になった話…自選エッセイ集【27】
先日、長年馴染んだ鼻ヒゲを剃った。ついでに髪も短くしたが、まあ、こちらの方はあまり変わりないようだ。
おかげで翌日、近所の近視のオバサンに挨拶しても、素通りされてしまった。後で聞くと、そのときは坊さんにも、ヤクザにも見えたそうである。
これには理由がある。信じられない話だが、ある日突然、私の鼻の嗅覚が、一時的とはいっても約一週間、何十倍にも鋭くなってしまったのだ。なるべく話がおおげさにならないように、いつも気をつかっているつもりだが、内心は数百倍だったのではないかと思っているぐらいだ。
原因は、はっきりとはしないが、たぶん、カゼをひいたとき、すすめられるままに数種類の薬を服用したことがきっかけだと思う。ビタミン剤以外はめったに口にしないのに、このときは大切な行事を控えていたので、漢方薬と合成薬を混合して飲んでしまった。
すると、カゼをひいているはずなのに、額は冷たくなってくるし、気分がますます悪くなってきた。さあ、それからがジゴクである。ボーッとしてはいても、何故かあらゆるもののニオイだけが気にかかる。というより、まず我が家の中が臭くて居られない。外へ飛び出しても、何処かでビニールでも燃やしているようなニオイがする。とにかく、風下にいると、遠くにいる人のニオイまで感じてしまう。ここが田舎でなくて都会なら卒倒してしまっただろう。しかたなしに家にじっとしていても、やがて人は眠らなくてはならない。その布団がヒドイ。
鼻ヒゲにも様々なニオイがこびり付いてしまい、我慢できずに剃ってしまった。
そしてなにより、ヘビースモーカーだというのにタバコが吸えない。入院したときでさえ、点滴しながらでも吸っていた私がだ。丁度いいからやめたらと言ってくれた人もいたが、だいたい、吸えないから止めるとは日頃の、ぽりしぃに反する。止めるなら、止めようという意志をもって止めたい。
そこで、今はそんな気はないから、吸えるタバコはないかと銘柄を幾つか試してみた。どうも洋モクがいけない。なんとか吸えるタバコは国産の強めのものに限られてしまった。酒もしかり、いい酒しか飲めぬ。
また、あたりまえの食事ができないことが辛かった。すべてが薬っぽい。普段好きな物がことごとく口に近づけられない。唯一食べられたものが、バナナだ。それも後半の半分だけ。どうも前半部分は不快なニオイがしていただけない。毎日がバナナ。とにかくバナナ。コンビニの弁当はもう二度と口にすることはないと思った。
不快な方のニオイは記憶に引っかかるものがあった。それはかつて、アメリカでうっかり嗅いでしまった、車に轢かれたスカンクだ。動物全般が生理的に嫌う、慣れることのない、いやなニオイである。 この世はスカンクの屁で充満しているとまではいわないが、いつのまにか、口で息をしている自分に気付いたのであった。
そう、犬になってしまったのだ。犬は種によっては人間の何万倍もの嗅覚の持ち主だという。普段は口で息をしていないと、とんでもないことになる。警察犬に犯人の所有物を嗅がせれば、跡を追えるとか聞くと、スゴイとか思ったものだが、あの時の自分ならできそうだった。それほど人間のニオイはきつい。
また、鮭が故郷の川に帰れるのは、海に溶け込んだ水のニオイをたどってと聞いたときは、これまた、どうゆう鼻ならそんなことが可能なのか理解し難いものがあった。それが今は案外、簡単なのかもしれないと思っている。
嗅覚という原始的な感覚は、視覚とか聴覚のような感覚とは異なって、一度に曖昧なものすべてが飛び込んできたときでも、実に鮮明に識別できる感覚なのだ。基本的に好きか嫌いか、あるいは目的のものか別のものか、これだけだ。
私でも、臭い水道のプール内に、もしも我が家の井戸水が流れ出しているなら、迷うことなく、たどり着けそうな気がしている。
こうして、私は一週間ほど、犬になり、また、鮭になった。どうせなら、別のものになりたかったのだが。
後日、TVで、シックハウス症候群の番組があった。患者の話を聞いていると、私の症状に似ている部分がある。
要は化学物質過敏症のことらしい。特に新築した家から発する揮発成分とか、ホルムアルデヒドとかいうものに、異常に敏感に身体が反応してしまうとのこと。患者にとっては深刻なことで、ローン支払い中の新築した家に住めず、わざわざ古い家を借りて生活している人もいるという。
私とすべてが同じわけではないが、化学物質系のニオイがダメだった点は似ている。スカンクの屁もどちらかといえば自然界には有り得ない意図的に作ったようなニオイだった、だから強力なのだ。お世話になった、バナナの名誉のために大きな声ではいえないが、たぶん、前半部のあのニオイは残留した農薬ではないかと思う。
そして、バナナは、まだいい方なのだ。食中毒を出さないためといって、防腐剤などを規制値ギリギリまで大量に添加しているであろう食品は巷に溢れている。私など、体に相当蓄積しているはずだから、おそらく死んでそのままにしておけば、腐らずにミイラになるかもしれない。
さて、現在の私はといえば、ご心配なく。元の鈍い感覚の人間に戻っている。どんなタバコでも吸えるし、安酒もうまい。我が家も居心地がいい。布団もいつものように清潔に感じる。ただ、食品のラベルに書ききれないほどの添加剤のあるものには、記憶が蘇って、さすがに手を出さなくなった。
それと、超嗅覚のとき、ぜひ嗅いでおきたかったニオイがあったのだが、チャンスを逃してしまった。それが、何なのかは、ヒ・ミ・ツ。
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2001年5月に岳洋社さんの「SW」に掲載されたものです。先のコラム…ベルサイユのヒラ【2】の中でニオイについて書いているうちに思い出しました。
ラストの、嗅いでおきたかったヒミツのニオイは、コラムにあるように、弾けるサラシにニオイが含まれているか、試してみたかったのです。そのときは読んでも何のことか解らないと思えて、ヒミツにしたのです。顔をサラシに突っ込んでいる男がいたら変、でしょう?
写真は、どうせならスカンクより、良い香りのするものにしました。昨日から咲き始めた睡蓮です。
これを観察していると、溺れないように、水位の変化を花自身が予想しているがごとく、花茎の長さを余裕をもつまでナナメに伸ばしてから、絶妙のタイミングで咲きます。
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いよいよ今日、K2F142のABS本型の成形品が届く予定です。先に書いたように、これから微調整としてリップを再度付け直す作業が始まります。あいにく今日は雨。明日以降、海に入り浸りになります。
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