メダルに相当すること

 四年に一度のお祭り、オリンピック、終わりました。参加選手誰もが輝いていました。たくさんの感動、ありがとう、です。
 それでも華やかな祭りの余韻に浸っていられるのは、関係者以外は数日といったところ。前回のアテネもその前も、真っ先に忘れるのはマスコミの常でした。後二週間も過ぎれば、あれだけ大きなイベントも潮が引くように遠い日のごとく扱われることになります。  
 
 それにしても我々一般人からすれば、オリンピックに参加できた選手は、その濃密な体験が想像できる故に、羨ましいと思う方は多いでしょう。
 TVに映る彼等はときに嬉し泣き、悔し泣き、雄叫び、陰りのない笑顔、天を仰ぎ、地に伏せ、それこそ最大限に感情を露わにします。普通に生活しているものには、なかなか得られない感情や経験のはずです。
 ところが、時々、競技でもないのに我々の身近にメダリストに匹敵するほど歓喜している人を見ます。
 そう、苦難の末にやっと釣れた、想いどおりの一匹に巡り会えた人達です。成人になってから一度も泣いたことが無いという四十代の豪腕営業部長が、一匹の魚を前にして涙しているのを見たこともあります。私自身、雄叫び、足が震えたこと、空を仰いだこと(別の意味かも)、いずれも単独のときでしたがあります。
 そして、こういう深く強烈な感情は、けっして数釣りや爆釣といった中には有りませんでした。ある種の一匹、で充分なのです。さらに、メダルに匹敵するような感動は、オリンピック並に四年とか十年とかに渡って想いを保ち、溜めていかなければ味わえないようです。だから私は、ある程度のバラシやアブレを容認しているのかもしれません。
 金メダルならともかく、確実に取れると判っているメダルにドラマは薄いものです。ギリギリのところでかなった願いこそが感動を呼び込むのは今回のオリンピックでもたくさん見ることが出来ました。
 
 我々ルアーマンには、素晴らしい経験を得るチャンスが常に有るはずなのですが、望み高く金メダル並の昂揚を得ようとするなら、ドーピングや卑怯に相当する方法は退けねばなりません。        また、競技という言葉は似ていますが、陸上競技等と、釣りで他人と競うこととは同列とは思えません。個々で完結して、純粋な数字を残すのみのスポーツと、補充の難しい生き物相手であり、数字の向上が他人のチャンスやフィールドに影響を及ぼしてしまう釣りとの違いは心しておくべきでしょう。(鮎やヘラは事情が異なる) 
 そして、あの数万人の観衆で熱気溢れるスタジアムの代わりになるシチュエーションといえば、広大で純粋な自然の真っただ中ぐらいしか思いつきません。
 
 かつて、ローカル水泳大会の個人メドレーで表彰台に上がったことがありますが、失格者が続出した運勝ちでした。簡単に得られた結果のせいか、その後、努力を重ねてやっと釣れた90センチ近いヒラのほうが遙かに感激したことを憶えています。
 方法と、志しを吟味して夢を目指していけば、何色かは判りませんが、誰でもメダリスト並みの歓喜に溺れることができる可能性があるということです。

Posted by nino