抽象画とルアーマン…自選エッセイ集より【11】

SW,岳洋社

 我が家のトイレの壁には、数枚の地図と細長い地球の歴史年表が貼ってある。
これを見て毎回(何が?)思うことがある。
たしか、日本の広さを本当に理解したのは、みずからオートバイに乗って一気に北海道まで駆け抜けたときだった。それまで使っていた列車や飛行機のときとは、距離の感覚に大きく違いがあった。
また、初めて通る道なら遠いと感じても、繰り返し通って慣れると近くなってゆく。測量上の地形は変わるはずもないが、我々の頭の中の地図はえらく歪んでいるようだ。
釣行の度に助手席で熟睡できる相棒は、どんなに遠い海でも三十分でいけるものだと思っているフシがある。
これが世界となると、その広さを本当に把握することは少々やっかいだ。他人の運転する飛行機に乗るしか手段がないので、回数を重ねる程、限りなく狭く感じてくる。ほとんど、ウトウトしているからなおさらだ。
カナダまで時速九百キロの速度で片道八時間ということは、相当遠いはずだが、どうも実感がない。東北高速道路を時速百キロで、同じ八時間かけて自分で運転していく青森なら、その距離が実感できる。ということは、時速九百キロというスピードがどれくらいのものか感覚的に掴めれば、カナダへの本当の距離も把握できる、はずだ。(何も、我々の乗っている地球が太陽もろとも銀河系内を、秒速220キロでぶっ飛んでいるスピードを想像せよ、とかの話ではないので)
車で速度を上げていくと、視界の流れ方が変化してゆく。たぶん、その延長上に時速九百キロがあるから、訓練すれば、なんとか想像できる。視界が極端に狭まってゆき、やはり、大空でないと吐き気がしてくる。

私には、生活上全く役には立たなくても、できるだけ正確に知りたいことがある。それは、本当の広さとか、距離とか、数とか、時間など、ごく基本的な事だ。ありふれた事とはいえ、感覚と一致させたいのである。
だから、思い立つと、高尾山から一番近い海ということだけで、神奈川県を縦断して、相模湾まで歩いてみたりしたこともあるわけだ。まあ、これは、サンダルだったこともあり、足を怪我して、距離の正確な把握には失敗したのだが、図らずも早朝の海が、いつもにも増して綺麗に見えた事は、収穫だった。

距離とは、時間×速度。その片割れの時間となると、さらに難しい。そもそも、誰が言ったか宇宙が生まれて百五十億年とか、地球が出来て四十五億年というのがピンとこなかった。たいそうな年数というよりも、イメージとしては、むしろ逆だ。数字の印象から、倒産した企業の負債額や、一群の魚の産卵数といった生々しい数を連想してしまい、宇宙や地球がそんなに軽くていいの、という感じ。
それらは、もっと遠く、もっと遙か昔であって欲しいという願いが、どこかにある。せめて、砂浜の砂粒の数ぐらいのイメージが欲しい。
これも確かめる必要があった。
◇抽象画
スピードに対する感覚はどうにか捕らえられたように、かつて、時の長さというものをこの目で見えるように、ある作業をしたことがある。
起きている間だけなら、一年の長さは誰にでもわかる。もっとも、その間、四ヶ月も寝ていることと、今の一年は、子供時代の一年より短く感じられるのが、問題だが。
そこで、まず大きなキャンバスを用意して、そこに三ミリぐらいの点状のものを描いていった。ひとつずつ調色して、すべて異なる色の一点を一年として、百点描けば百年になる。簡単だ。
ガンバルと一日で七百年分描けたので、三日あれば、キリストの生まれ年まで遡ることができる。単純には、実際の時計で、二十時間かかって、西暦の長さが想像できるようになった。これはちょっと安易すぎるかと思いながら、なお作業を続けて、一ヶ月で二万年。半年で十二万年。一年で二十四万年に達したところで、キャンバスがビッシリと点で覆い尽くされた。一応一枚完成。(ヒマジンというなかれ、いっぱしのルアーマンなら、これくらいリールを巻いているし、シャクッテいる。行為は、さして変わらぬ。)  
まだ地球歴でいえば、氷河期を越えることすら出来ない。脊椎動物の発生までは、後四億年以上ある。四十五億年前の地球形成までは、この一年で二十四万回も繰り返したことを、さらに一万八千年も続けるということだ。
やはりというか、当然というか、とんでもなく長い時間だと、ようやくわかった。もちろん、実感できるという意味において。そして、~の果てまで行こうとしたことのほうは、挫折したことになる。

この頃の習作(十万個以上の点で構成)が一枚あったのを、○○社が買ってくれたから見た方もいるだろう。
何の絵?と聞かれても、答えようがなかった。

その後、数年をかけ、こもりきりで(当時、山口M江が引退したらしいのだが、それを知ったのは数年後。)約百万回、筆を運んだ私は、ある日、外界の美しさに目覚め、釣りを再開することになる。今度は、部屋にこもることなく徹底的に外へ出っぱなし。K―TENが作られるのは、そのまた数年後のことになる。

今や、デジタルカメラだと、一枚数百万画素なんて当たり前。一瞬の事。しかし、それを手作業の筆でまともに描くと、トータルで四年かかる。
単位や数字というのは不思議なもので、生身の人間の実感とは離れやすい。
かつて、数年を賭して続けた行為が教えてくれたのは、意外なことだった。飛躍するようだが、それは、一日、一年、一回、一人、一匹。そして諸々のひとつ。それぞれの重みを、もう一度、噛み締めねばならないということだった。
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2000年11月に岳洋社さんの「SW」に掲載されたものです。たまには魚釣りから、ちょっと離れて…。画像は、どちらも過程で、部分です。全像だと潰れて青色にしか見えないので。我ながらよくやりました…。(これが自力で解いたヘプタモンドの集合と気付いた人はメマイがするかも?)

Posted by nino